APERUNZ NOTE

aperunz.labの備忘録。ビデオ撮影のこと、漫画のこと。

フリクリJAM recap公開しました

約半年ぶり以上間が開きました。久しぶりの更新です!

 

様々なことが様々あり、色々なことが難しくなっていくなかでできる事をやっていってます。去年のイベントですがフリクリJAM!recap完成しました!

 

思い出す意味でも見てってくださいm(__)m

 

youtu.be

 

さてしばらくはAPERUNZ二人とも色々あるのでできる範囲やれる範囲でやっていきます。個人的にはまずは現場に顔出すとこから始めたいですね‼️

今年も何卒よろしくお願いいたします。

 

 

 

「13月のゆうれい/高野雀」にみる呪い、同調圧力、アイデンティティ

 内容紹介

「さよならガールフレンド」の高野雀が挑む
女と男と女装男子の三角関係!

ネリが3 年ぶりに再会した、双子のキリ。
彼はネリにそっくりな顔で、ネリがおよそ着ないような
「可愛い」服に身を包んでいた。
「キリはいつ女の子になっちゃったの?」
弟の女装姿に動揺したまま、ネリは
偶然にもキリの同居人・周防(すおう)と知り合う。
男子校時代の同級生だという周防が抱く、
キリへの“ともだち以上”の感情に気づいてしまい――?

 ありがとうございます。とてもとてもいい作品に出会えました。

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style="padding: 0; margin: 0;">13月のゆうれい(1) (FEEL COMICS swing)

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「13月のゆうれい/高野雀(祥伝社)」

2巻完結で30分ないぐらいで読み切れますが濃厚な漫画体験でした。

三角関係が幹におかれながら、枝葉になる個々のエピソードの共通性が一つのテーマを投げかけてくる。

同調圧力社会の中の『わたし』」である。

恋恥最終話で語られた「呪い」という言葉で、自分の放った社会に対する不満が自分に返ってくる危険性について、大きく認知されたかと思います。

 

社会に多々ある固定観念という呪い、対抗する自分と適応する自分、無意識に社会側に参加する自分、全てを見つめなおして問い直して向かう先はハッピーエンド足りえるのか。

 

キャラクタが抱える固有の悩みにきちんとスポットが当てられていて、カタルシスまで昇華されないまでも、俯瞰で見てとてもよくできた作品になっています。よければ自身に照らし合わせて、各キャラクタがだした回答が自分にとってどうゆう意味になるのかを再考していただければ、最高です。

いい漫画を読んだ。本当にありがとう。

 

【漫画感想】亜人ちゃんは語りたい/区別と差別、平等に至る本当の道筋

まずこの作品「今週のテラフォーマーズお休みです」のような「亜人」のスピンアウトだと思っていました。まったく関係ないですんね…

 

亜人ちゃんは語りたい(1) (ヤングマガジンコミックス)

 いわば伝承として語られるような存在、「亜人」が人間と共存し学校生活をしていたら…みたいな思考実験のような漫画です。

主人公は教師でありながら亜人に対する興味関心が人一倍強く、マイノリティである彼女らの悩みに答えながら物語は進んでいきます。登場する亜人は吸血鬼、デュラハン、雪女、サキュバスと伝説上よく聞く存在ですが劇中ではあまり生態など詳しくは認知されてません。マイノリティでありながら、人間との共存をはかり暮らしていく彼女らの努力が実っていく様は成長物語として面白いです。

 

共存のためには理解が不可欠である

 

作中吸血鬼やサキュバスはわりと知られた存在として、人間生活に溶け込むための対策が練られています。一方雪女などはまだ未確定の部分が多いため試行錯誤しながら生きていくための方法を探します。

主人公の高橋先生は「自分の好奇心」のためではありますが、亜人達との会話を続けることで、人間との差異はなんなのか、また感情として亜人自身が自分の特性をどうとらえているかを言語化し、お互いの理解を深めていきます。

普段は語られる事のない亜人自身の気持ちと亜人じゃない側の気持ちをすりあわせすることで、結果より良い共生社会が作られていきます。それは例えば「吸血鬼はニンニクが嫌い」というステレオタイプに当てはまらない亜人に対して、本人の『亜人として』ではない特性がが関与していることを突き止めます。それによってより理解を得ることができるのです。

 

区別と差別、そして平等について

 

物語中盤に人間の同級生達が亜人との接し方(本当はもっと仲良くしたい)を話し合っているときに、わりとこの漫画の確信めいたセリフが出てきます。

 

「そもそも亜人は同じ人間なのかな?」

 

とても差別的に聞こえるワードですが、この言葉で亜人と人間の間に理解が芽生え始めます。

要は亜人には亜人なりの特性があり、社会生活に適応するために苦労したりあるいは活用したり諸々の試行錯誤をしている。そこを無視して「まったく同じ評価の箱」に入れてあれこれ考えるのはほころびが出るのではないかということです。そして別の箱に入れたことを前提にして、個人としての悩み、接し方を考える。本来解決の道筋を示すのならばこの方法が正しいはずです。

まず亜人なりの生きづらさ、特性を理解した上で、そこで初めて「何に悩んでいるのか?」にきちんとスポットライトを当てることができるのではないのか。非常に示唆に富んでいると思います。

 

現実のジェンダー論、もしくはアファーマティブアクションについて

 

自分はわりと若い頃から「男女平等社会」に対して違和感がありました。例えば政府の要職に女性が何人いるかでその社会の平等さを測るのは、とても乱暴で危うい方法だと思います。

男女では生物学的に特徴に偏りがあります。同じ運動量でも筋肉は男性の方がつきやすいと聞きますし、マルチタスクをさせたら女性の方がこなすというのもよく聞く話です。また妊娠出産、それに伴うホルモンバランスの変化は女性がしか経験することができません。

あくまでも偏りがあるという事ではありますが、これらがまったく考慮されない状態で社会制度を男女同じように作るのは無理があると思います。

 

本人の属する属性の特徴、またそれに付随する生きづらさはコミュニケーションを経て初めて外部に発信されると思います。まずはそこが共通認識になってから、初めてその人個人の生きづらさに対処することができるのではないでしょうか。

 

雪女と吸血鬼は同じ亜人でも、本人の性格、周りの理解者がいたかどうかでも悩みの度合いが異なってました。それはやっぱりコミュニケーションの量、発信力によっても生きづらさは変わっていくと思います。一人の個人の悩みとして認識するためにまずは特性からきちんと理解する。現実世界でもわりと重要な事だと思います。

 

思考実験としての面白さ、そして今後の展開は…

 

この漫画の面白いところは例えば雪女の伝承に関してきちんと帰納法で実験して仮説を立証していくところです。ファンタジーだからそういうものという思考停止も可能ですができるだけ科学的説明をつけようとする感じ、誠実でとても好きです。

 

漫画自体も亜人ならではの日常や、恋愛模様も発展し展開が面白くなってきました!次巻が楽しみですね!

 

 

 

 

「労働塊の誤謬」の誤謬

昨年から人工知能界隈の話題が盛んで、ネット囲碁界に突如現れた無名の新人が実はAIだったとか、漫画のような話がリアルでも起こり始めています。

そこでよく議題にあがるのが「人工知能が人びとの雇用を奪うのではないか」というテーマです。

 

人工知能にとってかわられる仕事はこれだ!」みたいな記事がニュースサイトでよく取り上げられてましたね。実際に政府も、議案の叩き台を人工知能に作らせる等積極的な活用が見てとれ、今後軽微な作業は殆ど人工知能が担うのでは?といった予測もあります。

人工知能労働市場に出てきたら失業者はうんと増えるのでしょうか?実は経済学ではこの問いにすでに答えを出しています。

 

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労働塊の誤謬

 

 労働をひとつの塊(例えばアップルパイとか)として考えた場合、人工知能が新規参入した場合、パイの数は限られているので当然食べられない人が出てきます。

しかし労働はひとつの塊ではなく伸縮する可能性を持った市場です。人工知能が新規参入しても、労働力の需要は変化をするので人工知能にとってかわられた人達は別の職に就く。現に人手不足で困っている業種も数多く存在します。労働力の供給が増えれば必然的にそこの需要が満たされていくでしょう。社会は伸縮性があり、労働はひとつの塊ではない、というのが現在の定説です。

 

産業革命とラッダイト運動

 

定説となった背景には過去の事実が証拠としてあるからです。

18世紀末に起こった産業革命は、瞬く間に紡績等の工業化自動化を進め、それまで勤めていた職人達は自分たちの職を失う恐怖心から、各地域で工業機械を壊す暴挙に出ました。これがラッダイト運動です。

しかし製品制作のオートメーション化がかなり進んだ現在においても、失業率や貧困問題が危機的状況に陥ったことはありません。※勿論個別の問題としてはありますが社会が成り立たなくなるほどではありません。

これは生物学的に言うと、蒸気機械が元々の人間のニッチを奪っても、人間は別のニッチに適応することができる、ということです。

 

ラッダイト運動は無駄な運動だったのか?

現代の失業率から見ても労働塊の誤謬は真実だろうし「機械が仕事を奪う」というのは杞憂である、という経済学の定説は誤りとは思えません。

ラッダイト運動はポピュリズムの生み出した愚行だったのだろうかという疑問に対し、ここである仮説を提唱したいと思います。

「工業化が奪ったのは職人の仕事であり、ゆえに労働の喜びと創作の喜びは切り離されてしまった」

 

労働塊の誤謬の誤謬

 

ここに来て記事タイトルへと帰結します。かつての労働は「物を自分の手で作ること」つまり創作の喜びに直結していたと言われています。それは非常に承認欲求を満たす事のできる「生きる」ということにダイレクトに繋がっていたでしょう。

そのなかで承認を得られなかった人達、うまくいかない人達を工業化は救いました。何故なら機械さえ動かせば買ってもらえる商品を創作できたからです。一方で創作で生活していた人達は工業化によって作品の価格は下がり割りを食うことになりました。実際に統計データがないので、断定はできないですが、工業化に一番反対だったのは「生きることと労働がコネクトしていた人」、一番賛成だったのは「コネクトしてない人」だったのではないでしょうか。

 

先ほどのニッチの例で言うと上手く適応できた人は別の職にありつけ、健康に幸せに暮らしていけたかもしれません。しかし適応できなければ淘汰されるのが自然の摂理です。職人的な人ほど適応は難しいのではないでしょうか。

 

またここから先は主観と経験則ですが、ファジーさの許容範囲が広い手づくりが主流だった時代は、発達に障害があっても職人として生きていけたのではないでしょうか。もし仮にそうだとしたら、職人的職業の価値が下がり「一般の企業」に入ることが是とされる現代において生きづらさを感じている人達はは、産業革命の時から徐々に変化した社会変革に適応出来なかった人といえるのではないでしょうか。

定説「労働塊の誤謬」は『職を選ばなければ』真であると言えるでしょう。労働流動性の低い日本で、成りたい自分になる!と声高に宣言できれば労働塊は無限に伸縮し、ニッチ探しもスムーズでしょうね。

 

人工知能が奪う仕事は誰の仕事だろうか。

 

これまでは与えられた仕事をこなすだけだった機械は、人工知能の搭載により、判断が可能になりコミュニケーションを会得することとなります。それは定形発達者の得意分野である気がするのです。

最後に残ったニッチがすみやすい環境とは限りません。人生と労働が完全に切り離された時、人は労働を捨てれるのでしょうか。選択の日までに自分の決意は固めておきたいですね。

 

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岡崎体育「MUSIC VIDEO」が壊したもの、MVを作るのに躊躇はいるのか

 

去年話題だった岡崎体育さんのMV「MUSIC VIDEO」は界隈で話題になりました。

youtu.be既存の「MVあるある」のみで楽曲が構成されていて、茶化しながらも業界に蔓延する「MVこうしておけばそれっぽくなるだろう」感を先手を打って封じ込めるような内容になっています。先にやったもの勝ち感はありますが、製作者側はある意味、大きな制約を突き付けられた感じがありました。

「MVあるある」を安易に使う怖さ

上のyoutubeリンクを見てもらうとわかるんですけど、結構頻繁に使われている表現が羅列され、受け取り方次第では「この表現を使うということは手抜きだな…」と視聴者に思わせる内容になっています。確かに『カメラ目線で歩きながら歌う』とか『突然カメラを手で隠して次のカットで場所移動している』とかは作り手側からすると異常に便利です。

すぐそれっぽい映像になります。これを受けて仲間うちで話もしてみたんですけど、これからのMV製作に「MUSIC VIDEO」は縛りとなるのか、結局答えは出ずじまいでした。

フレンズ「夜にダンス」のMVについて

話変わって最近はまっているフレンズの「夜にダンス」にMVを下記にのっけます。

 

youtu.be

最後まで見てくれた方はわかると思うんですが、わりと岡崎体育さんにいじられていたベタ表現のオンパレードです。事実youtubeコメント欄でもすぐに「急に横からメンバーでてくるw」といじられています。

 

このMVはベタゆえに陳腐でしょうか。個人的には全くそう思いません。

もちろん主観であり人によっては「いやいや…」という人もいるとは思います。ですがこのワンカットで繋がるジャズダンスは「夜にダンス」というタイトルともマッチしていて、MVとしての完成度は(機材の画質は別として)めちゃめちゃ高いと思います。特に3サビのスタジオでのシーンはなかなか心打つ印象的な映像です(最後夜景を見つめるのも最高)。

技法は意味を伴って価値がある

岡崎さんのMVが、意味のない技法が蔓延しているMV業界への揶揄だとすれば、作り手がわのすべきことは、その表現を避けることではなく、きちんとそのカットに意味を持たすことだと思います。なかなか難しい作業ではありますがMVとして何かを伝えたいのであれば、せめて「このカットの意図するところはね…」と説明できるぐらい手を抜かないのが理想ではあると思います。

何らかの表現には意味が伴って、そこに技法が加味されるのが、作り手側の頑張りどころで、たとえば「夜にダンス」にそういった陳腐さを感じさせないのはやっぱり作り手側にその気概があったからじゃないかなぁと勝手に類推しています。そうだといいなぁ。

おそれずに陳腐なテクニックを使っていこう。矜恃を持って。

「MUSIC VIDEO」で歌われているのは無意味に使われているテクニックが「カーゴカルト」化していないかを再確認させるいいきっかけだったと思います。私達はテクニックに頼ることなく、むしろこのテクニックが効果的なんだと胸を張って言えるようにしていきましょう。この言葉は一番自分に向けて言っています。マジ頑張らないと…。

 

ちなみに上記紹介した「フレンズ」、シティポップぽさもありながらキャッチーなメロディで、イントロ数秒でぐっと心をつかまれるので、そういうの好きな人はぜひに。おすすめです。

 

 

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